川島芳子の獄中記が語る真実 /
2009年 04月 14日
かなり綿密に検証され、昭和23年3月25日、午前7時、北平の宣武門外にあった第一監獄で、銃殺刑が執行された川島芳子は替え玉であったという驚くべき真実?に迫っている。
しかし、その根拠となるものは生き延びたとする芳子に育てられたという女性の証言と、李香蘭のレコード集などの遺品らしい品物と芳子の生存を信ずる中国人の研究グループの証言、銃殺された女性の写真から科学的に割り出された骨格と芳子の骨格の比較である。
その他、芳子の遺骨があるという中国の天台宗国清寺でそれらしき遺骨からDNAを採集とか、生き残ったとされる芳子の遺品から採集した指紋など、これが本当に本物の芳子のものと一致すればまさに世紀のスクープだと期待したが、途中からだんだんと雲行きが怪しくなり、お寺から遺骨が消えていたりして、今、流行の娯楽版歴史ミステリーの様相になってくるのだが、ついに番組の最後の方で特定できなかったと最大の根拠からあっさりと逃げてしまった。
実に残念だ。僕の手元には下の写真の「川島芳子手記 川島芳子獄中記」なる本がある。
初版は昭和24年6月20日となっており、僕が持っているのはその復刻版だ。
作者というより編者は川島芳子の養父、川島浪速の秘書で林杢兵衛という人だ。林氏はこの芳子の獄中記を世に出した動機として、前記の番組でも触れていたが川島芳子が養父に犯されたという不名誉な噂を否定するために,芳子が獄中から養父にあてた手紙類も含めて、獄中記を集めたと解説している
この獄中記は芳子の苦悩や生への執着が前面に出ていて非常に興味深いが、ここで特筆したいのは巻末付記に小橋助人という人物から養父川島浪速にあてた芳子の処刑後の報告文だ。
これによると日本臨済宗妙心寺古川大航禅師が遺骸引き取り方として出頭し、許可を得たとある。中国では刑を執行された者は一箇所に葬ることになっているが、この古川大航氏は妙心寺の総務総長をされた高僧であったために特別に引取りが許されたという。
そして古川氏は午前9時に遺体を引き取りに行ったが、5時間待たされて無事遺体を引き取ったとある。その様子は時間を追って克明に報告されており、芳子とされる遺体は翌日火葬された。
遺骨は一部養父に送り、観音寺で法要(出席者も明記してある)戒名は「愛親壁薹妙芳大姉」とある。
つまり、ここまで詳細に書かれている人物が替え玉とすれば、この替え玉について写真から骨格を割り出して
ということだけで替え玉と断言していいのかという疑問が残る。
あれだけ綿密な取材をされたスタッフが替え玉とされた遺体の行方を探ろうともしていないのは納得できない。
川島芳子は前記の獄中記の最後にこう記している。
行く末は 日本も支那も 骸骨なら 何で討ったり 討たれるぞ 平和の光り 大陸に 日本も支那も同胞ぞ
討つ人も 討たれる人も 心せよ 同じ亜細亜の 同胞ならずや