早くも届き始めた「グッバイ艶」の感想。 /
2011年 05月 29日
今日は新百合ヶ丘の有隣堂を覗いてみましたが、平積みが残二冊。これって10冊積み上げたのが2冊になったのか、4~5冊が二冊になったのか分かりません。
一冊買おうかと思いましたが、カミさんに
「一冊買ったら残りは一冊。平積みじゃなくなるかも」
と言われ買うのをやめました。正直に言って売れて欲しいと切に願ってはいますが、この手の本は爆発的に売れるものではなく、ジワジワと浸透していってくれればいいと思っています。
それよりも、読者から寄せられる書評や感想文が何より励みになります。今日、届いた中から二通の書評および感想文を御紹介します。
南川さん
艶さんは生きていましたね。
「写真」が撮られた瞬間から時を超えて自分を生き始めるように。
不用意におめでとうございます…などとは言いません。
再刊は決して奇跡めいた幸運などではなく、迂闊だった出版界並びに編集者が
犯した失態に、今やっと、正当な光が射し込んだところだと思うからです。
漂流する時代と人、そして「グッバイ艶」も漂いながら
絶望という海で再び出会うことになったのではないでしょうか。
その意味でかくもふさわしい今日という背景は無いでしょう。
泰三さん、どうやらこれも艶さんの仕掛けた罠ですぜ。
そしてまだまだ何が隠されているのか、窯変は今後も続くでしょう。
この作品がどこに流れ着くのか、知っているのは彼女だけ。
今まで、評の中に「再生」という解釈は言葉はとしては余り見かけなかったように
思いますが読者は今、その事も胸元に突きつけられながら読む事になるでしょう。
確かに表現の赤裸々と壮絶に一旦は目を奪われ肝を抜かれながらも、
やがてここにあるものは自れにとっての何なのかを考え始める筈です。
だからこそこれはドキュメンタリーでなければならなかったのです。
ここ「猿の手相」の熱いファンでもある私、
ハナからパンツを脱ぎ、抜き身に衣着せぬ南川氏の凄みは優しさに
覆われて俄かには分からなくともじわり遠赤の如くやがて芯まで通貫する事
を知るべしです。
この小説を2年前に読んだ時、私は「純愛物語」だと評しました。
あれほどの修羅が斟酌なく積層して行けば行くほど、私の中の情景は
逆にどんどん静かに澄んでいき、最後には真水になってしまいました。
女性評の中に艶さんへのリスペクトが多くありますが
男と女ではこの作品の評し方はかなり違って来ると思います。
概ね母性に鈍感な男である私の新しい解釈です。
艶さんは南川さんの底の見えない優しさが怖かったのではないか。
そしてそれが自分以外の何かに属してしまう事が。
自分の男を決して他に渡さない手立てが自分を壊す事であったとしたら
私も艶さんを愛しく抱きしめるしか無いでしょう。
そのような事があり得る事を何とか理解出来る歳にはなりながら
そういう羽目には縁のなかった私は、どこかで泰三さんに嫉妬しながら、
実は胸を撫で下ろしています。
神田川同世代男のステロタイプな感傷かも知れません。
もう一度読み返し、新たに気付かされた何かがあればまた書き込みます。
梶川 進
『マイミクのいなちゃんさんの日記で知った「グッバイ艶」読みました。
艶さんは幸せな女性ですね。
いつも人の顔色ばかり気にして生きている自分にとって
艶さんの生き方生き様はある意味羨ましく思いました。
長いようで短かった25年間はかけがえのない時間だったと思います。
性描写はまったく嫌ではありませんでした。
むしろ嘘がないと感じ好感が持てました。
そして南川さんの優しい笑顔の画像をあらためて見て
あの本と=になったことで私の中で「グッバイ艶」が完結しました。
ありがとうございました。 マイミク あいさん





