おあややおやにおあやまりなさい
2006年 01月 29日
「日本語が乱れている」
等と叫ぶつもりはない。あえて言うなら日本語が乱れているというより、日本語を使う日本人の心が乱れていると思えてならない。
日頃、若い人たちや仕事仲間と話していても、会話しているのに会話になってないと気付くことがある。話が噛み合っていないのだ。意見が相違しているわけじゃない。たとえ意見が対立していても噛み合う会話は存在するよね。
「僕もそう思う」「僕はそう思う」「僕はそう思うが」「僕はそう思いたい」
同じような言葉でも微妙にニュアンスが違うはずなのに、相手に伝わらない場合が増えている。
「明日は雨かなぁ」「明日は雨に違いない」「明日も雨か…」「明日は晴れるのだろうか」「明日は晴れて欲しくない」みんな翌日の雨を予測する言葉だが、そこには微妙な表現の揺れがある。 しかし、そんな揺れに気付く人は少なく、伝わるのは電飾ニュースの「明日は雨」というメッセージだけだったりする。
かつて日本人は言葉を単なる物理的な伝達手段ではなく、魂のあるもの「言霊」として捉えていた。(何か偉そうだなこの言い方)恋人と交わす言葉の微妙な言い回しに一喜一憂し、「好きだけど…」と言った彼女の「けど…」の意味に思い悩んだ。
友人との会話でも
「お前の言うことは理解できる」
と言われたら「お前の言うことは」と前提を置いているのは「お前の言うことは理解できるがオレは違う」というニュアンスを感じ取ったものだ。
「言葉のあや」が失われつつあるだけじゃない。魂の通った議論も失われつつある。会議などで議論らしきものに遭遇することがあるが、ほとんど議論になっていないことが多い。自己主張が一方通行で交互に飛び交っているだけだ。
僕も気が付くと空しい議論の仲間入りをしていることに気付き、自己嫌悪に駆られたりする。
倒産の危機に直面している某弱小出版社で、社長と編集長の会話を耳にした。どうやら社長は会社の危機を乗り越えるために、赤字続きの文芸誌を廃刊しようとしていて、編集長と対立しているようだ。
編集長は何十年か続けて来た文芸誌はこの出版社の良心で、廃刊することは出版社としての埃も信念も捨て去ることに等しいと訴えている。
どう聞いたってこの編集者の意見は正論だ。たんに議論だけなら編集者の一方的勝利で社長に勝ち目はない。
しかし、編集長に今、自分の会社が置かれている状況をどの程度理解しているのかはなはだ疑わしい。
「社長のお気持ちは理解できるが、この雑誌だけは死守して、他の出版物の利益アップを
はかるべきだ」
「そういう努力は赤字になり始めた3年前からしているが出版不況の中でこれ以上の利益は難しい」
社長と編集長の議論は平行線のまま終わりそうにない。会社が倒産すると出版社の良心も埃も信念もないと思うのだが、編集一筋の男には経営的な視点は全くない。
編集部のスタッフも編集長の意見に頷いている。この出版社は間もなく倒産した。
考え方次第では「正論」が会社を潰したとも言える。その出版社に何人の社員がいたのか知らないが、会社を失った社員は路頭に迷い、その多くは出版社に再就職の可能性はない。
議論する相手の立場や状況を理解しながら、何故、現実的な議論が出来なかったのかと思う。
何だか今、日本中が短絡化している気がしてならない。メール語が若者達の思考を侵略し、総理大臣はキャッチフレーズコメントのみ、ニュースはディテールを省略して、表面的な現象のみを伝えている。
僕の仕事の一つであるナレーション原稿も例外ではない。微妙な言い回し、含みのある
言葉は「分かりづらい」と言われ、お年寄りから子供まで理解出来る言葉を使って欲しいと要求される。
読書家のディレクターやプロデューサーは希少で、彼等自身が言葉を知らない。知ろうともしない。
何だかマイナーな話になってしまったが、この話、どこまで伝わりますか。伝わりそうにないか。オットこれは言葉のあや。
泰三のブログのフロク「悪魔のひとこと辞典」
「正論とは 1+1=2」





