突然、数年前のある出来事を思い出した。それは今、僕が抱えている仕事の問題点ともからんでくるのだけれど、それはもう少し頭を整理しないとうっかり発言出来ない。
数年前の出来事とは新宿にある障害者施設に取材に行った時のことだ。近くの道路を5~6人の障害者が「そこどけ~!」と叫びながら、道路のど真ん中を車椅子で疾走していた。
僕はとんでもない奴らだと怒りを覚えたが、彼らに直接、注意する勇気はなかった。
後日、ある障害者にそのことを話したら
「あんたは障害者は道路の端を遠慮がちに歩けというのか!」と言う。僕は思わず
「たとえ障害者であろうと健常者であろうと道路のど真ん中を突っ走る権利はない」と言ってやった。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という標語のパロディが昔、流行ったが、最近、弱者と
思われている人たちが、大きな圧力団体になっていて、マスコミも彼らに気を遣いながら、彼らの主張に行き過ぎがあろうとも、ズバリ批判出来ないでいる。
それこそ障害者であろうがなかろうが間違いは間違いで、彼らに「間違ってる!」ということが
対等なつきあいではないのか。彼らに気を遣うこと自体が、ある意味では差別そのものだ。
僕は強度の近視でメガネを取ると1メートル先もよく見えない。メガネがなかったら完全な障害者だ。たとえ足がなくったって将来、自由に動く義足が登場すればメガネをかけて、かろうじて
健常者の仲間入りをしている僕と同じだ。手が不自由な人には代わりの手があればいい。代わりの手がなければ誰かが手の代わりをしてやればよい。
「お前らに障害者の気持ちが分かるか!」「ハイ、分かりません」
両手両足のない人の苦しみは、目は悪いが五体満足の僕には分からない。障害のある部分から目線をはずしながら、言葉に気を遣いながら話したくない。それこそ差別だ。





